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2007年6月22日 (金)

満15歳

Photo_42 珠洲鉢ケ崎のキャンプ場にすてられていた仔犬は、けがした左の前足が痛むらしくてあまりうごこうとせず、じっとしてるとまるでぬいぐるみのおきものみたいだった。
その子を家に連れて帰り、翔と名づけ、一緒に暮らすようになった。

出逢ったときがたぶん生後2、3ヶ月だったろうから、

この6月で満15歳だ。
ひと年齢にしたら85歳くらいだろうか、
春ごろからめっきり足がよわって、
ふらついたり、急にへたり込んだり、
そして庭から縁側まで、自力ではもうあがれなくなってきた。
思えばかなりの段差を、
よくこれまでジャンプしてのぼりおりしてきたものだ。
あらたに階段を工夫して、いまはそれで一段づつあがってくる。
庭に降りる時は、抱っこしておろす。
前からあまり丈夫でなかった心臓にくわえて、
腎臓もよわってきたねえ。
寝てる時間がふえたけど、
でもしっかりたべてくれるのが、幸い。
そして、大きな丸い目でじいっと家族を見つめる時間が多くなった。
翔は若いときからほとんどほえない、おとなしい、やさしい子。
言葉ではあまりしゃべらない分、
瞳と表情で、語りかけるたちだったけど、
近ごろは前にもまして、ひとみでしゃべる。
だから私もじいっと翔を見つめて対話する。
なんてなんて大事な家族だろうと、一緒の時間を共有して
生きてることの想いをかみしめつつ。
Photo_43
翔があんまりよわってしまわないうちに、
とこの前、娘が逢いに来た。
帰ってからメールが届いた。

「今回翔を見てて思ったんだ。
翔は、前みたいに、元気に走り回ったり、じゃれたり、
はもうしない。
それでも、私達は、
翔が生きている、というその存在にすごく救われてるし、
その存在以上、何も望んでいないよね。
疑いようもなく、今の翔を愛しているね。
生きている、ってそういうことなんだね。
翔、ありがとう!」
生きている、ってそういうことなんだ、ほんとに。
前にも一度書いたことがあるのだけど、
<present> は、プレゼント、であると同時に、
現在、ある、いる、存在してる、という意味もあわせもつ。
あなたが生きて、今いること、その存在そのものが、
すばらしい贈りものであり、ギフトだということ、
老いた翔も、同い年のマーガリンも、
家族のひとりひとりも、
そして私のだいすきな、なつかしいひとたちも。

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2007年6月20日 (水)

宇宙のくすだま

六月の町は、くすだまみたいなあじさいがあのかどに、このかどに。
あじさいはそれひとつで宇宙みたいだ、といつも思う。

ずうーっと前、紅茶にいらしたかたからいただいたひと鉢のあじさい、鉢植えのときにはピンクだったけど、
うちの庭の花になったら、水色になった。
くすだまが、まだかたい蕾のうちは、
赤ちゃんがぎゅっとにぎったげんこつをてんでんにのばしてるみたい、
そのげんこつがほどけてゆくと、
花びらは(ほんとはガクなのだそうだけど)
どんなちいさな涙もすくいとれそうな、
まるみをおびたてのひらのかたち。

うずあじさいとか、おたふくとか、おかめ、とよばれるあじさいらしい。
くすだまがすこしずつその輪をひろげ、色づいてゆくさまを、
毎日、庭にでては確かめている時間がいとおしい。Photo_41
どなただったか、もうお名前もさだかでないけど、
あなたがあの日持ってきてくださった贈りものはいま、
雨のわが家で、
一年中で一番美しいときをむかえています。

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2007年6月18日 (月)

詩の時間に

図書館の詩の時間の日には、いつも不思議なギフトをもらう、参加するおひとりひとりから。といっても、紅茶のようにちっともはやっていない、小さな小さな読書会なのだけども。

遠くから毎月足を運んで参加しているKさんは、どうして今の今、この詩を選んで持ってきてくれたのだろう!と思うような詩の本を、いつもそのバッグから取り出します。

こんなのどうかしら、といって彼女がなにげに差しだす詩集。まったく知らない詩人さんの本の、はらりと開いた一ページに、はっと心がすいよせられたり、あ、ぴったり!とどきどきするようなことはこれまでも少なからずあったけれど、この日はとくに、今の自分のきもちに、ああ、そぉ、、、っと寄り添ってもらえてる、、と感じる詩に出逢えました。声に出して読みながら、ありがとう、ありがとう、とつぶやきたくなるような詩でした。

浜文子さんというかたの「ひと葉ひと言」(立風書房)という詩集のなかの、「祈り」という詩と、その詩に添えられた短い文章に、その日、出逢えたことのしあわせ。

いつもそばにあって、見慣れはて、忘れていた一本の樹から、それでいい、もういい、、、あなたのままいなさい、と声をかけてもらったこと、作者がその声を聴いたこと。

詩って、その時々の、ひとのこころ度合いのものさしみたいなものかもしれません。同じ一つの詩に、感じるものは決して同じじゃない。ひとの気持ちはいつも変化しているから。

それでも、あるひとが、ある詩を、声に出して読むとき、その詩のことば・詩のたましいを、どう感じているかがわかるとき、そこに一緒にいるひとたちは、詩人のこころと、読んでる人のこころと、ときにはその人の人生の、両方をわかちあうーーーーこの読書会に参加するお一人ひとりからギフトをもらう、と、書いたゆえんです。

Kさんに、あらためてありがとう。

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2007年6月12日 (火)

季節はずれの、雪のように

庭につぎつぎ空から舞い降りてくる白いもの。栴檀の、ひとつひとつはちいさな花びらが、今年の出番がおわったものから順に、雪のようにひっきりなしに降ってきて、地面を白くしていきます。

遠くからからはまるで緑の葉の先に、薄いピンクのもやか、霧でもかかったかのように見える、それが一年のうちで、ほんの10日ほどの、栴檀という木の花のさかりのときの風景。

いつもは5月にしている「紅茶」での、律子さんの、ちいさなひとのためのおはなし会。今年は6月はじめだったので、ちょうど栴檀のもやが夢のように咲いているときと重なりました。近くの学童のこどもたちがおおぜいでやってきます。手遊びの「たんぽぽ」や「いちじくにんじんさんしょに、、、」や、何度も読んでもらっているお買い物の絵本や、「そらいろのたね」や、むかし話や、。

ああ、こんな時間に身をゆだねるの、ほんとにひさしぶりだなあ、、。律子さんにも、きてくれた子どもたちにも、帰るとき、「また来年もくるから!」っていった男の子にも、ありがとう、だなあ。

このところ、いろんなひとからの、なにげないやさしさ、さりげないやさしさ、花びら一枚分ほどのやさしさ、というものが、とっても心にしみてゆきます。おおげさでないことって、大事だなあ。そういうきもちにも、ほんとにしみじみと、ありがとう、です。

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2007年6月 3日 (日)

栴檀の花

気づけば、とうに藤の季節を過ぎ、今はもう、庭の栴檀の花が、緑の葉のあわいから、うっすらとピンク色の花をのぞかせる季節になっていました。とてもとても長いこと、ごぶさたしました。

今回あらためて、これまでここに書いてきたことを読み返してみて、我ながらよくまあこんなにまめに、ひっきりなしに、くわしく書いてきたものだ、とびっくりしています。

ゆっくりとふりかえれば、もともとは、誰かに何かを「伝えたい」、が原点で書いていたはずのものが、いつのまにどこかの時点から、伝えなきゃ、記録しなきゃ、報告しなきゃ、という、「しなきゃ」「しなくちゃ」「~しないと」で満杯になってしまっていたのかもしれません。

満杯でぱちんぱちんになってしまったものは、そこで中味を一度抜くしか、きっとないのだろう、そしてじっと身の丈を見つめるしかないのだろう、と思いました。

不思議なもので、いったんこのページからある期間遠のいてみると、それはそれで、あらたな書き込みをしないことが、むしろ当たり前の日常に思えてきます。かつて、といってもそんなに大昔ではない、少し前の、スローでアナログな暮らしにもどったような、懐かしい感覚。

万年筆の書き文字、手づくりの封筒、記念切手、、、。昔から慣れ親しんできたものたちとの距離が、いまはことさらに近いです。

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