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2007年7月31日 (火)

カナカナカナ

ここに越してきた15年前は、庭に一本の木もなかったんですよ。

というと誰もがびっくりする。今は、栴檀、ネム、クヌギ、 コナラ、ウワミズザクラ、藤、それに名前をしらない木たちもおいしげって、外から見るとみどりのドームのよう。家のなかからの眺めは森のよう。それが年を追うごとに濃くなって、おかげでみどりのエアコンがとてもよく効く。

じいぃっ、じいぃっ、じいぃ~~~~、じいぃ~~~~~。

にいにいにいにい、、。

みいい~~~ん、みいい~~ん。

ちょいっ、ちょいっ、ちょいっ。

セミたちをBGMに鳥の声がかぶさる。ちいさな森のアカペラ。ときどきは、ホーホケキョ、ケキョ、も聞こえる。

夕暮れにちかづくと、すきとおった高音の、カナカナカナカナ、、、、、
こっちのこころまで共鳴してふるえてしまいそうな、ヒグラシ。

ときにはすぐ隣にいるかのような近さで、大きく、カナカナカナカナ、、、、

目を閉じて聞きほれる、夢の中にいるみたいなきもち。

一週間前、10日前、にきいたカナカナカナ、、、の主は、まだ生きてるか。カナカナカナと呼んで相手を見つけて、生まれてきた役目をもう終えたろうか。毎朝、縁側に倒れている何匹ものセミのなかに、耳見知りは、いるか。

セミも、鳥も、風がならすはっぱのざわめきも、夏の日のいのちのアカペラ。

夏のいのちの間に、その美しい音をせいいっぱい聴こう、味わおう。

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2007年7月30日 (月)

はい、いいえ

はい、いいえ、で答えることを要求されてる質問と、そうでない質問、と。

Yesか、Noか、を訊いているのにそれにはまったく答えず、説明・解説・いいわけ・弁明をえんえんのべるひとがいる。こっちはそのたびに、まずは訊かれたことに答えてよ!といらいらがつのる。

ABさんは見事なまでに、Yes・Noの問いに答えないひとでした。

2年前の9・11選挙。おそろしいほど、どどーっと一気に流れた渦が、今度は大反転の渦になって還ってきた。一人区の石川でもしかり。津幡の投票率もあがっていた。

だけどそれはまたいつ、逆の大きな渦になってまきもどるのか、わからない。

憲法(を変えること)を選挙の目玉にしようと、マニフェストの一番目にあげながら、それどころじゃなかったABさん。憲法(とりわけ、9条の2項を変えないこと)を争点に必死にうったえた声は、年金の激流の渦にのまれて水中深く埋もれた。今回の選挙の皮肉。

でも、声は、確実にある。

憲法を変えないことにYes、と言う声。龍平くんや、読谷村の元村長さんや、沖縄の糸数さん、、私にとって存在感のある新議員さんたち。もちろん、変えよう、という声もある。それは選挙後のこれから、もっとおおきくなるだろう。

3年後から先の、いつかわからない改憲国民投票のとき、YesかNoか、答えを迫られるのは、私たち一人ひとりだ。

私は、変えないことにYes、です。

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2007年7月27日 (金)

エネルギーもんだい

元気がどうにも出なくて、手持ちのエネルギーもとても低下してるとき、

ひとはそのエネルギー消費を極力抑えるために、感じる心を鈍くさせる。

心に、感じないことを命じる。

泣いたり、笑ったり、外に出かけてひとと会ったり、が困難になる。

頭の回転もスローモーション、声もちいさく、または出なくなる。
話すことも、きもちじゃなくて、外側の、どうでもいいような情報のみ。

表情が消える。まわりが怖いから、じぶんも怖い顔になる。
そうすることで必死に、自分を守っている。

そうやって休んでれば、エネルギーがたまって元気になってくる?

それが、なかなか。

実はその貴重なエネルギーは、

不安や恐怖をとりこみ、そこで醸造される想像力で、おそろしい未来のストーリーを勝手に創りあげること、
じぶんを責め続けること、などでどんどん浪費されてしまい、

はた目にはなにもしていないにもかかわらず、
ぐったり、へとへとにつかれてしまう。

誰かがこういう状態のとき、まわりの人には何ができるのだろう。
きっとすごくむずかしいけど、ひとつには、

そんなわけわからん状態のそのひとを、そのまま、こわいならこわいんだ、不安なら不安なんだ、と、まるごと受けいれる、受けとめる、ってことなんだろうなあ。

それも、ああ、このどうしようもないじぶんという人間が、いま確かにこのひとには、この場では、受けいれてもらえているのだ、と、そのひと本人が実感できる誠実さでもって、受けいれられてるということ。

クッキングハウスのテーマソングの歌詞が、

♪不思議なレストラン、心の居場所。ここに、いても、いいのですね、

で終わることは、その意味でも、だからとってもシンボリカル。

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2007年7月23日 (月)

鍵のかかった話

そのお話、私が聴かせていただいて、ほんとによかったのだろうかーーそんな、畏れやとまどいにも似たきもちになるたぐいのお話を、ごくごく少人数の紅茶や、二人紅茶の時間でお聴きする機会が、少なからずある。

こちらから言葉を迎えにいかないで、でもそのかたが話された、ということは、おそらくそのかた自身、話したかったのだ。話すことで、放したかったのだ。

と、思いなおして、そのお話をこころの引き出しに納めて、鍵をかける。

それが割りと私のふつう。なので、そんな鍵つきのお話が、けっこう貯まっている。引き出しの奥に。

              * 

ひさしぶりの誰かにばったりあった時、その誰かさんが、そこにいない私の知り合いの、わたし的には「鍵つき」に思えるお話まで聞かせてくれちゃったりすると、私はうろたえる。

たぶんあのひとは、そこまでは私に知られたくなかったろうなあ、と秘密をのぞき見したようなうしろめたさで、からだが固くなる。

              *  

ある時、たくさんのひとのプライバシーがつぎつぎあかされる場にいあわせた。正直、きもちが悪くなった。なのにそこから逃げ出せなかった。ききたくないです、とも言えないじぶんにとても自己嫌悪した。からだがきゅうっと固くなった。

たぶん、ほかのひとには別になんてことない、ひと様の家庭の話、よそごと、他人事。それがちくちくささって、私が過剰に反応しまうのは、じぶんのなかに「鍵つき」の話をいっぱいしまってるせいだ、とあらためてわかりました。

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2007年7月22日 (日)

田んぼの時間

この夏、三度目の田んぼの草取りに。

水の張ってない田んぼにはいるのは、この20年で初めて。長靴が泥にとられてくんずねんず。

へろへろになりながら、田んぼの草取りって座禅と似てる、といつにもまして思う。ただ目の前の稲と草と泥を追って過ごす時間。

お日様の少ない今年、田んぼの持ち主のYさんちのトマトはなかなか赤くならない。でも稲の育ちはどうやらいい感じらしく、草取りもそろそろ一段落。

ひとをとりまく時間がどんどん早くなっても、自然にまかせて育つものの時間は、早くならない。

ひとの都合で早められない時間のものさし。一つでも二つでも失くさずにいたい、と思っています。

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2007年7月19日 (木)

ブーメラン

ほんの30分くらいだったのに、あの時、聴いてもらって、鏡みたいに自分のきもちがみえたって、○ちゃんが。

と若いひとが私に伝えてくれました。

そのことば、素直にうれしい。

聴かれる、という行為が、そのひとにどういう意味をもたらしたか、知ることは、ふつうあまりないこと。また、鏡になろうとしてもなれないこと、よく知っているから。

おそらくその日は、双方の、聴く、聴かれる、が、そこまで近づく必然、というものがあったのでしょう。

一年以上たって、ブーメランが還ってきた、そんなきもち。

還ってきたブーメランによって、わたしがまた助けられていることを、助けたそのひとは知らないけれど。

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2007年7月14日 (土)

選挙権

究極の格差社会、それが、戦争。

「たたかう!ジャーナリスト宣言」という本を出したばかりのシバレイ(志葉 玲さん)。イラクに5回はいり、ファルージャの虐殺も目の当たりにし、米軍に拘束もされた、若いジャーナリスト。

彼の話を聴きに行った。最初の言葉が、「究極の格差社会」。

真っ先に殺されるのは、その社会で一番弱い人たち。殺す側のひとたちも、また。貧しくて、軍に入るほかなかったアメリカの若者たちが、イラクの市民を殺させられている。

戦争をはじめたひとや、そのことに責任をとらなければいけないひとたちは、決してそこには行かないで。

シバレイの話の先に、日本の若者たちが、他国の弱い人たちを殺させられる立場になる日、を想った。

今回の選挙。「年金」のうしろに隠れている「改憲」。今回選ばれる人たちは確実に、今の憲法を変える動きに直接かかわる人たち。わたしたちの、一票の、なんと重いことか。

若い人のブログでみつけた、「選挙権」と題する短い文章。

   ↓

     哀しいかな、人は、必ずしも平等には存在できない。
      しかし、1が1として存在することを許される、唯一の瞬間。

     それは、1以上でも1以下でもなく。
      しかしそこには、底知れぬ可能性が秘められている。


     そんな当たり前のことを、
     最も知らないのは、あたし達。
     最も知っているのは、彼ら。
    だからこそ、不確かな1にすら、お金を惜しまないではないか。

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2007年7月13日 (金)

わが家に来てくれた

Photo_44 赤いルビーのようなすぐり、

「祈り」の詩と出逢えた詩集「ひと葉ひと言」、

どちらもひとさまのものだったのに、だいすきだいすきといい続けていたら、もとの持ち主さんがそれぞれ、どうぞ持っていって、紅茶の本棚にどうぞ置いてね、と言ってくださった。

    ****

7月に金沢に行きます、という便りに、ぜひぜひ寄って、とお返事出した翌日に、わが家に来てくれた原始林窯のお二人。

一瞬、手紙がまにあったのかと思ったけどすぐ、んなわけないよね、いくらなんでも早すぎる。でもきっときもちがワープして、私の「来てほしい」が届いたんだ。

毎日毎日、ゲンさんとこりんちゃんのつくったお皿や器で食事しているから、その意味では毎日「逢って」いるのだけど、生で逢えるのはやっぱり違う。ほんの短い時間の、たまの、逢瀬、だからよけいに貴重。

それにしても、知りあってから25年以上。こうも変わらない二人もまれ、変わらなくて、それでいてどんどんやさしさがふかくなるひとたちもまれ。二人と会ってるとき、多くの言葉はいらなくて、それでいてちっとも不安にならない。

秋には、川越紅茶で二人の作品展とおはなし。何年もかけてつながってゆく、その速度も、原始林にも川越にも、ちょうどいい。

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提案スイッチ

Photo_45 じぶんにダメだしを出しまくってた時期に、娘からひとつの提案。
「あたしのこと想うみたいに、じぶんのこと想ってみて」

以後、じぶんの否定スイッチがはいりそうになるたび、この提案を実行した。

相手のこと想うように、
相手のこといとおしむように、
相手のこと慈しむように、じぶんを。

じぶんのことはいっとききらいになれても、
こころから大切なひとのことは、なにがどうあっても
決してきらいになれない。
だから、相手を想うように、じぶんのこと、想おう。

娘からの提案スイッチは、おりおりに私にはいって
私にちからをくれました。

ある日、車のなかでCD聴いてて、
あ!と思わず声をあげた。小田和正の「たしかなこと」

♪自分のこと、たいせつにして
  誰かのことそっと想うみたいに

いってるのは、おんなじこと。


娘の提案スイッチに何度も助けられながら、あらためて、
決してきらいになれないひとがいること、
愛せない理由をさがせないほど大切なひとがいること、
その存在のありがたさに、深くふかく感謝。

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2007年7月11日 (水)

開いている

ときどき、今日は紅茶やっていますかぁ、とか、紅茶あいていますか、というお電話をいただく。あ、あいていますよ、と答えると、電話口から安心の気配がして、お名前を聞くこともなく、お電話を切る。

毎水曜日の午後の紅茶、以前は、ひらいている、という感じがつよかったけど、ここのところは、あいている、という感じかなあ。

春に連続5週ほど、お休みしてしまった(24年の紅茶の歴史の中ではじめて)けれど、その後はいつもどおりに、あいている。

午後を通して3,4人の週もあれば、翌週は、ひとのでいりの多いにぎやかな紅茶、次の週はまた静か、その次の週は一年ぶりのひとがみえたり、遠い県外からのひとが訪ねてきたり、、、とふしぎなくらい、紅茶では静と動の時間が交互になる。

能登からの二人がみえて、その週はほかのひとは最後まで誰も来ず、わたしたちだけで板の間に大の字にしばしねころんで、能登の二人にも私にも、あ~なんてのんびりした休息の時間だったろう、と感じられたとき、私自身もまた、この週の紅茶にたまたまやってきた一人だったのだ、と思う。

開いている、を、あいている、と読むか、ひらいている、と読むか。

不特定多数のためでは決してないが、かといって、まったくの「小」でもなく、せいぜい「中数」くらいの紅茶は、ときに、私のためにあいている場所、なのかもしれない。そう感じることが、このごろはとみに多いです。

気の張らないお菓子といっしょにもちよるさまざまなきもち。

楽しいきもち、はずむきもち、重たいきもち、悲しみのいっぱいつまったきもち、切ないきもち、とまどってるきもち、言葉がまだ見つからないきもち、もやもやのきもち。

来るひとそれぞれのきもちを聴きあい、まだまだ知らなかったきもちにふれ、他者の話す言葉のすきますきまから自分の想いにきづいてゆく。そういう相互作用の共同作業をするために、紅茶はあいている、のだと思う。

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2007年7月 1日 (日)

あたりまえのことが

うれしいことをうれしいと、楽しいことを楽しいと、美しいものを美しいと、感じるきもち。泣こうとしないでも、悲しいとき、うれしいとき、ひとりでに出るなみだ。

そんなきもちもなみだも、とくべつに何もしなくても自然に感じる「あたりまえ」のこと、と思っていたけど、それができないとき、ってのもあるんだなあ。

こころがあまりにも疲れすぎてしまってたら、残り少なのエネルギーをそれ以上は減らさせないために、感じるきもちやなみだをしばらく封印させるのかもしれない。そうやってでも、こころは必死に宿主を守ろうとしてたのかもしれない。

「あたりまえ」のことが、実はあたりまえでなかったと知ること、こころがとてもけなげに働いてくれてることに、とまどいながら、おどろきながら、感謝したこと、おおきな気づき。

       ***

細い赤い絹糸のようなネムの花が、雨の庭でさきはじめた。

ああ、きれいだなあ、かわいらしいなあ。

桜、藤、栴檀、合歓、とそれぞれ自分の出番を知っていて、ときが満ちるのを待って、ひとに気づかれようと気づかれまいと、自分で咲く花たち。

桜にも藤にも、ことしは気づけなかった。そのことでむくれたりしない花たちが教えてくれるもの。めぐる自然の大きなちから。

              ***

ちいさなうれしいを、うれしい、と感じられる今の自分が、うれしいです。

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