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2007年11月28日 (水)

出かけてゆく哲学

前々から一度はお話ききたかった鷲田清和さんの「哲学」の話。

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ドイツ語の「始まり」が、日本の哲学書では、「始原」。「ある」は、「存在」に。「何もない」は、「無」に。「~になる」は、「生成」と訳される。

こうして、日本の哲学語は漢字だらけとなり、入口がむずかしいので解説書のやたら多い学問になってしまった。鷲田さんは、そういう「哲学」にずっと抵抗してきたひと。日本では、哲学の研究はすすんでいるが、哲学はまだはじまっていないのではないか、と。

10年ほど前、鷲田さんは日本で初の、臨床哲学という分野の学問をはじめた。臨床は、ギリシャ語のクリニコス=ベッドサイド、が語源。つまり、医師がベッドサイドに出かけてゆくこと。臨床哲学とは、出かけてゆく哲学だ。

ベッドサイドにかぎらず、同時代でむずかしい問題のおきている現場に出かけていって、そこのひとたちがふだんつかっている言葉(哲学用語でない言葉)で、いっしょにディスカッションに加わり、その中で道すじを見つけてゆくこと、簡単でしかも的確な言葉を見つけてゆくこと、それが、鷲田さんの言うところの、哲学&哲学の作法。

哲学者としての自分の仕事は、ディスカッションのリーダー役やまして誘導することでは決してなく、交通整理役のようなファシリテーターに徹すること。

これまでに「聴く」「待つ」という本を出してきたので、キク・マツの次はウメ、だろうか。産め・生め・産む・生む。いのちは、生まれる、という他動詞。であるなら、死というものを考える時に、自分の死を体験して語ることはできないが、「死なれる」ということでは多くの人が語れるものをもっているのではないか。

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ーーーーといった鷲田流・考え方回路、哲学の作法、と称するものが刺激的で、聴きながらどきどきしてた。

でもそういうことーー現場で、そこのひとたちのいつもの言葉で、ともに考え、語りあうことの必然や大切さって、日ごろから紅茶の内外で思ってること、試みてることだよ。

あ、そうか!日ごろ漠然と思っていることに、的確でシンプルな言葉を見いだす、それが哲学という学問だと鷲田さんは言ってるのだ。哲学と暮らしが別世界のことではないこと、哲学と自分の人生が無関係じゃないんだ、ってつまりは、こういうことだったのか。

西田幾多郎哲学館の入口で待ち伏せして、鷲田さんに、「きもち」の本をお渡しした。ほんの少しお話も。この方の10年前のご本、「聴くことの力」を読んでなかったら、おそらく「きもちは、言葉をさがしている」の本は書けなかったろう、お話聴いてますますそう思ったから。

鷲田さんは今、大阪大学の総長さんだそう。でもちっともえらぶらず、なんて威圧感のないかただったろう。まなざしが、深かった、です。

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哲学館では、12月2日まで、館として初のギャラリー展示、鉛筆画家の木下晋さんの「老いの尊厳」展もしている。

日本で最後のごぜさんと言われた小林ハルさんや、絵本「ハルばあちゃんの手」原画や、ハンセン病の元患者で盲目の詩人・桜井哲雄さんを描いた「83年目の闘魂」など。

特別企画「老いを作る」の連続講演会の最終回は12月2日(日)

宗教学者の山折哲雄さん「老いて蘇る~神と翁と日本の美」

14:00~ 入場無料 申込みはいりません、どなたでも。

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