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2011年3月31日 (木)

ともに考える場を (長い模索)

mai works のmai です。
今から書くことは、ここ何日間かの間、自分の中で続いている模索です。
とても長い文章だけど、
私の頭の中を、一人じゃなく、誰かとshareできたらと思います。

私は買い物をする前に、
インターネットの口コミサイトを利用することが多い。
なぜって、メーカー側の広告だけでは、本当の商品の価値が、よくわからないから。
「売りたい」側が、メリットしか教えてくれないのは、当たり前のことなんだろう。

こっちだってそれがわかってるもんだから、
損得勘定ぬきの意見を参考にしたいと思うのもまた、
当たり前のことって思う。
だからこそ、口コミサイトは成長できたんだろう。

メーカーに依らない「ここがよかった」や「ここがよくなかった」が、
ひとつの場所に並んでいれば、
それを比べることができるし、検討することもできる。
そうして最終的には自分の責任で「選択」することが、
「買う」ということだと、私は思ってる。

だけど、電力を買う時には、そういうわけにはいかないのだよなぁ。
私が買うことのできるメーカーは、住んでいる地域の電力会社しかないし、
その中でも、「こういう方法でつくられた電気を買います」って
選択することはできない。

「買う」という行為事態は、他の商品と何ひとつ変わらないのに、
選択肢がないというだけで、
その電力がどこでどんなふうにして作られて、どんなふうにしてやってきて、
そこにあるメリットとかデメリットとか、
私は真剣に考えるのを、放棄してしまっていたように思う。

というか、そもそも判断材料が少なすぎるよ。
それは今だって同じこと。
確かに毎日いろんな場所で、いろんな立場の人が、記者会見を行っている。
官邸、東京電力、原子力安全・保安院、原子力安全委員会。
そして、そこから得られた情報が、
テレビや新聞などのマスメディアを通して、連日報道されている。

にもかかわらず、判断材料が少ない、と私が感じる理由は、ただひとつ。
それは全部、推進派=原発を「売る」側からしかの情報でしかないからだ。

原子力発電は国策という大きなプロジェクトとして、
たくさんの税金が使われてきた。
産学協同の名のもと、経済界も学術界も、原子力発電をサポートしてきた、
原子力安全・保安院は、名目上は規制をする側だけど、
原子力を推進する経済産業省の内部に位置しているから、
独立しているとは言えない。

原発を日本に導入する時には、
中立であるはずのマスメディアが原発推進の旗振り役だったという歴史もある。
ましてや、今では電力会社が多額の広告料を支払ってくれる大口顧客なんだから、
それを度外視して報道をすることは、現実的に難しいんだろう。

その一方で、1986年にチェルノブイリの事故が起こった後、
各地でたくさんの市民が声をあげたのもまた、事実だ。
(母もその一人で、その記録を、『まわれ、かざぐるま』の中に残している)

技術者や研究者(元推進派)の中から、危険性を訴える人たちもあらわれた。
だけれども、この25年の間、そういう活動をする人たちは「反原発団体」として、
白い目で見られ、世間からも浮いた存在だった。
彼らの言うことは、
「反原発団体の言うことだから信用ならん」「理想論だ」として、
一蹴されてきてしまった。

(こんな状況にあってもなお、彼ら情報の発信は、
それでもやっぱり、「煽ってる」「大げさに言ってるだけ」と言われることがある)

でも、どうしてなんだろう。
他の商品に関して、私たちは当たり前のように、
いろんな立場からの情報を知ったうえで、選択したい、と感じているのに、
なぜ、こと「電力」になると、
簡単に「原発を推進したい」と思っている人たちの意見だけを、
正しい情報として、鵜呑みにしてしまえたんだろう。

原子力発電の問題は、おそらくお金とはきっても切り離せない。
推進派には、原子力発電があることで利益を得ている人もいるのだろう。
だけど、それに異議を唱えることで、
研究のお金をもらえなかったり、教授になれなかったり、
テレビに出してもらえなかったり、白い目で見られている人たちには、
いったいどんなメリットがあったのだろうか。

私自身は、声を大にして「原発反対」と言ってはこなかった。
母の活動を近くで見ることで、そのむくわれなさに、無力感のようなものを感じ、
自分が深く立ち入る勇気がなかったんだろう。
そして、電気がなかったら、じゃあどうやって暮らせばいいの、
なんて素朴な疑問を感じ、母の言っていることは理想論なんじゃないかと、
心のどこかで思っていたのかもしれない。

だけど今私は、自らが選択してきた態度は、やっぱり違った、って思っている。
原発を使わない暮らしが理想論だとするならば、
原発で事故は起こらない、絶対安全だということもまた、
理想論なのではないのかと、いまさらながらに気づいたからだ。

たとえ自分に、明確な答えが出せなかったとしても、
「本当のところを知りたい」と、
私は声をあげなきゃいけなかったんだ。

田中優さんの講演を聞いて、
スウェーデンでは、消費者が電力を選べるシステムだと知った。
アイスランドでは、すぐれた地熱発電を使っていて、
しかもそれは日本製だということも知った。
河野太郎さんは、日本の外では
再生可能エネルギーへの投資が伸びているとも伝えている。

でも、もしかしたらそこには、
私のまだ知らない問題点だってあるのかもしれない。
もしあるのなら、その問題点を聞きたいと思うし、
その問題点を克服するのと、原子力発電の問題点を克服するのと、
どちらが現実的なのかを、考えたい。
それを、日本に住む普通の市民である私にも、一緒に考えさせてほしい。

私が望むのは、原発推進派も、脱原発派も、中立派も、
その他、なんの名前もつかない人も、
同じテーブルに座り、それぞれの立場から情報を交換し、
建設的に話し合ってほしいということだ。

そしてそれを、私たちにも公開してほしい。
いろんな立場の人がいて、いろんな意見があって、
それを平等に知ることができる。
それが、「公共」のあり方だと思うから。

長い歴史の中で、推進派と脱原発派の間には、大きな亀裂が生じてしまった。
悲しいことだけれど、互いが互いを憎み、醜い争いだってあっただろう。
(脱原発派の放つ怒りのエネルギーが、一般人を原発議論から遠ざけてしまったのもまた、
 事実だと思う)

私は、0か100か、All or Nothig、の議論は求めていない。
派閥やイデオロギーも求めていない。
「世界の中の日本という国、そしてそこに暮らす私たちにとって、
 よりよい未来ってなんなんだろう」
ただその一点を、ともに考える場を、求めているのだ。

本当に、原発がなければ日本はやっていけないのか。
安全をとるか、文明をとるか、という二者択一しかないのか。
代替エネルギーへの転換は、非現実的なのだろうか――。

それは、これまでのような"VS"の構造ではなくって、
もっと中間であり、グレーであり、曖昧なものの模索だ。
(むしろ、完全を求めてしまったら、先には一歩も進めない)

今もってなお、福島原発の状況は刻一刻と変わる中、
「今そんなこと議論している場合か」という意見もあるのかもしれない。
だけど、年単位での対応が大いに考えられる中、
もし今事態を見守ることに終始し、
これからの未来を、私が自分で考えることをやめてしまったとしたら。

エネルギーの問題を考えるのも、軌道修正するのも、
正直ものすごく大変だと思う。
「これまで通り」で進んでいくのが、一番簡単だ。

だからこそ、状況がなんらかのかたちで収束を迎えたとき、
まるで「原子力エネルギー」の問題自体がすでに解決されてしまったかのように、
私を含め、多くの人たちの意識からすっぽり抜け落ちてしまうんじゃないか。
忘れ去ってしまうんじゃないか。
なかったことにしてしまうんじゃないか。

私は今、新しい選択の入口に立っている。
そのことを、ちゃんと自覚していたい。
目の前の事態に恐れおののいて、思考を停止させてしまいたくない。
それこそ、そんな場合ではない、と思うから。

mai

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