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2011年3月 8日 (火)

さくらの椅子

110306_5、6年前、薪になる運命でわが家にきた山桜の木が、こんな椅子になった。

おしゃれな雑貨店で椅子を買おうとしてた娘を見て、
待て!そんな高いの買わんでいい、俺が作るから、
と約束してたまあさんだったけど、刈谷の酒井くんのちからを借りて(というか、酒井くんが来てくれたおかげで)、こんなかっこいい椅子ができあがった。

座るところも、三本の足も、支えの枝も、すべて山桜。
かんなをかけ、木屑だらけになりながら、うれしそうに椅子を作ってくれた酒井くん。仕上げにお手製の椿油も手でぬりこんで、それは美しい色つやの椅子に。

                  *****

4時間あまりにおよぶ男たちの手作業の時間。
その横で、私は姉の着物を黙々とほどいた。
このところ、心にわだかまる出来事があって、何もしないでいると、きもちがふさぐ。
そんな時、淡々とした手仕事に集中することで、何かしら救われるきもちのすることがよくあったから。

こちらも3時間ちかく、淡々と、粛々と。
糸をほどくことに専念しているうち、きもちがだんだん透きとおっていくのがわかる。
透明なこころで見つめてみると、こんがらがっていた毛糸玉の、ちいさな糸口がようやく見つかる。
ひとつほどけたら、また一つほどけて、そうか、そうだったか、そういうことだったのね、と一人二役の自問自答で、さらに問題がほどけていく。

10年ほど前からコミュニケーションの練習を続けてきた中で、自分をしばる「自動思考」に気づくことや、それを他の考え方に変換して考えてみること、ものの見方、とらえ方である「認知」を変えること、そういった練習も、いつのまに身についてきてたのかもしれない。

単調な手作業は、自暴思考切り替えのヒントをくれる、その意味で私にとって大事な、こころ作業の一環。

男たちが椅子を仕上げるまでの時間に、私はいくつもの、そうか、そうだったのか、を見いだし、おかげで、こころの体重もずいぶんと軽くなったのだった。

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