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2016年9月27日 (火)

東村山へ

Photo_2 24日は、5月にお話に行った東村山の保育園に、もう一度呼んでもらいました。
二度目で、前回よりこじんまり、ということもあり、この日は、あらかじめのタイトルは持たないで行く、という出前紅茶。

最初に私が紅茶のことや近況を話して、そのあと、集まった人たちに何でもいいから私に質問してください、という、めったにしない「しつもん紅茶」をしました。

折り紙に書いてもらったいくつもの質問。
質問をジャンル分けにして、簡単に答えられるものから順に答えて、話が巡っていくうち、思いがけないことまで時に話しちゃったりする、といったシナリオのないしつもん紅茶は、何年かぶりのこと。

他者から「問われること」によって、自分でも気づかなかった想いに初めて気づいてうろたえたり、考える貴重な機会をプレゼントされたり、意外な大発見をして得した気分になったり。

深い問い、難しい問いは、私も考えるけど、むしろ、その場にいる人みんなに一緒に考えてもらう、というのが、実はこのしつもん紅茶のやり方。その質問は、だから一番最後にとっておくんです。

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この日の最後の質問は、この二つ。

「平和とは何か、考えることが増えました。私の平和、家庭の平和、世界の平和。私の平和の中身をよく見ると、世界の不幸を食べていることに気づく。写真を見ればかわいそうと思いながら。罪人だなと思います。どんな平和を求めていくことを考えておられますか」

「津久井やまゆり園の事件についてスウさんが思うことを聞かせてください」

ね、こんな深い問いには、決して一人じゃ答えられない。これが正しい、という正解もない。
問いを投げられて、自分の思うことを発し、相手の言葉に耳を傾け、そこにいる人たちと必死になってともに考えつづけるしかないんだ。

その日に出てきた様々な言葉。

自分と少しでも違う人を、異質なものを、排除しようとする空気を感じてる。
いろんな人たちが、摩擦、葛藤、びっくり、を共有してた時代が、かつてはあったよね。

役に立たない自分が生きてることが許されないと思ってた時も、13条は、ただあなたが生きてるだけで尊い、って言ってくれてた。

犯人の言うことにも一理ある、っていう空気が今あることこそが怖い。

人間は愚かだから、役に立たない人より役に立つ人の方がいいって考えがち。
戦争の時代に、国の役に立たないことが悔しかった、と言っていたろうの人がいたように、一人一人が、国が考えてるような視点で、国の役に立つ人間になりたい、って思うことは、あちら側の思う壺にはまること。
今の時代だって、役に立つ人だけ望むとするなら、それはそういう社会の構図を肯定しちゃうこと。

自分の子は普通じゃないかもと恐れ、病名つけられて違うクラスに分けられる。
そうすることでますます摩擦がなくなってく。平面化して、均質化してく。

平和、って、戦争の原動力になりうる言葉。平和こそが、不平和の素かもしれない。

自分の加害性に気づくこと。揺らがない正義があるのでなく、もがきながら、矛盾抱えながら、それでも、自分にできることを探りながら生きていく。

子どもの未来のため、だけではダメだ。もっと広い世界の平和に責任もつこと。
暮らしを見つめる、暮らしを深めたい、って思った。

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二つの重たい問いかけは、途中から混ざり合って、リンクしあって、どれだけ話しても正解は得られないけど、話せば話すほど、その問いは自分と無関係じゃない。
今のこの社会を構成しているこの自分に、突きつけられる問いになっていきました。

しつもん紅茶の、いつも最後が予想できないこの展開ぶり。哲学カフェみたいでしたよ。
若いママたち、パパたちと深い話ができて嬉しかったでした。



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