2019年10月 7日 (月)

松浦さん、ありがとう。

5日と6日、二日に渡ってワークショップをしてくださった松浦さん。これで11年目。私は両日とも参加、味わいの違う、濃い二日間を経験することができて感謝でいっぱい。学んだことのいくつかは、またおいおいに紅茶やコミュニケーションワークショップの中でおすそわけ還元していきますね。
 
夜は、ありがとうとおつかれさま、のきもちをこめて金沢でお食事。開店まで少し時間があったので、柿の木畠の大好きなお店をいくつか覗きました。
 
ライブのリハ中のもっきりやさんを、通りからガラス戸越しに。ここは金沢の老舗のライブハウス。マスターの顔もちょっぴりみえた。平和・共同ジャーナリスト基金受賞の時、おめでとうとありがとうの会を仲間たちが開いてくれた場所でもあり。(東京での贈呈式には松浦さんも駆けつけてくださってた)
 
それから、同じ通りのコジさん、ここのコジドラ美味しいんだよ〜〜とお店でお買い物。
それから、同じ並びにあるカフェギャラリー・ミュゼさんですてきな焼き物展示を楽しませてもらう。ミュゼさんの窓から見える石垣は、金沢城のまわりを囲んでいた、西外惣構(にしそとそうがまえ)の。
そして、柿の木畠から竪町通りに向かう道の途中のフルオブビーンズさんでゆったり夕ご飯。おいしい野菜をたっぷり。
 
ご案内した四つのお店とも、ある共通点があり。ピースウォーク金沢をいつも応援、ピース割引にご協力くださっているお店ばかりでした!

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2019年9月16日 (月)

おおきな悲しみ

さとみちゃんからの、悲しい悲しい知らせ。

読みながら、なみだがとまんない。すてきなハグは、アラウージョから教わったものだった。つい昨日も、その話を紅茶のおかあさんとしてて、彼の名前を言い合ってたばかりだった。

どれだけの大きな、深い愛を、教えてくれたひとだったろう。。。!彼の存在そのものが、平らな関係を人と人の間につくることの大事さ、おしえてくれてた。知識じゃなくて、感じあうこと、気づきあうこと。

この20数年あまり、アラウージョが日本に来るたびにさとみちゃんがそこにいて、場をオーガナイズしてくれてた。アラウージョの言葉は、通訳のさとみちゃんを通して私の中にはいっていったんだ。

最近の来日で、アラウージョは民主主義の話よくするんだよ、路上の民主主義のこと、いっぱい話すんだよ、ってさとみちゃんからも聞いてた。じかに聴きたかったなあ!!

今何度も読み返しながら、今この瞬間を生きる、生きた、アラウージョさんを思い出してる。ポルトガル語で、ハッピーバースデーの歌、歌ってくれたことも覚えているよ。
てのひらのハグで、ぎゅううっと、合掌します。

(アラウージョのこと、「出逢いのタペストリい」の中で、書かせてもらっています)

この文章かくだけでも、さとみちゃん、どんなにつらくて悲しかったろうね。ありがとうね、教えてくれて。

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*******来日の度、通訳をしていたさとみちゃんの投稿です。

 

重い荷物を引いて次のまちへと移動しながら「ぼくたち、いつまでこれ続けるんだろうね」とよく言い合っていたものだ。「二人とも腰曲がってもやってるんじゃないの。で、あなたは講演でこう話すのよ。ぼくはHIVに感染して早100年。世界最長寿でギネスブックにも載りました」 顔を見合わせてあははと笑いながら、きっとそうだよね、とたがいに信じていた。
 
1999年に私が前任者から引き継いでから毎年、20年間に渡って彼の日本講演事業をオーガナイズしてきた。ブラジルではHIV/エイズ当事者運動が公的医療制度の大幅な改善・拡充を牽引し、ブラジルを「世界で最もエイズ対策が進んだ国」と国際社会から賞賛される国に押し上げて行ったという歴史がある。
 
いまも連綿と続く彼ら・彼女らのムーブメントは、エイズ分野に限らず、他のさまざまな疾病の患者団体やLGBT団体、人権団体、貧困コミュニティ団体等を巻き込んでエンパワーし続けてきた。その社会運動シーンの中心にいつもアラウージョがいた。
 
「路上は民主主義の舞台だ」と彼はいつも言っていた。路上に繰り出してデモで訴える。そんな時の彼はひときわ輝いていた。「こんな社会でありたいと求め、そんな社会を自分たちで作っていく。それが民主主義だよ」と彼から教えられた。
 
彼とふたりで作り上げてきた日本講演事業では、エイズのことを知ってほしいということそのものよりも、ブラジルのエイズ当事者運動というケースワークを通して日本の若い人たちと民主主義を語り合いたいと願ってきた。今年もいつものように年末にまた、「第二の故郷」と呼んだ日本へ彼は行くことを楽しみにしていた。
 
「ぼくはエイズでは死なないよ」と言ったことがある。じゃあ何よ?と聞くと「んー、ガンかなー」と適当なことを言っていた。奇しくもその言葉通りになってしまった。8月はじめに確定診断を受けてから、たった1ヶ月の命だった。どんなに無念だったろうと思う。
 
リオでの2週間の取材を終えて8月はじめに彼に会った時、それまでの電話やメッセージのやりとりでは彼が元気を装っていたことを思い知らされた。2月に渡伯した際に会った時にはすこぶる元気だったのに、たった半年後のやつれた姿に言葉を失った。「なんで黙ってたの。嘘までついて!」 思わず声を荒げたら、「メールや電話じゃいやだったんだ。どうしても顔を見て直接伝えたかったから」と長い打ち明け話を語り始めた。
 
よろめく体をそれでも杖で支えながら彼はサルバドールまで出かけて行ったのだ。連日のワークショップや講演会をこなすようすを写真で送って来てくれた。私も彼が「ぼくの子どもたち」と呼んで愛してやまなかった2匹の猫、エロスとラトーナの写真をせっせと送った。「2匹一緒に引き受けてくれる人をもう探してあるよ。いや、治療が済むまでの間のことだけだから」と言っていた。「治して2年後には必ず日本に行くよ」と言っていた。
 
サルバドールからサンパウロに戻る彼と入れ違う形で私はブラジリアでの取材に出かけ、ほどなく連絡が途絶えたことに不安になった。共通の友人から彼が緊急入院したことを知らされた。ブラジリアから戻って病室に駆けつけると、やつれ切った姿があった。その後、私は8月19日から9月7日まで仕事でアマゾンの先住民族保護区に入り、ネットにようやく接続できた時、その前日に彼が旅立ってしまっていたことを知った。9月3日、享年62歳だった。
 
アマゾンへ出発する前日に病室に見舞った時には、彼はそれまでとは打って変わってエネルギーにあふれていて、「今日は朝から電話でケンカしまくってるんだ」と笑っていた。友人たちの腫れ物に触るような彼への態度に「冗談じゃない。そんな扱われ方をされたらボクがボクでなくなる。そんなのは絶対にいやだ」と文句をつけながら、「これこそがアラウージョだ。アラウージョらしさが戻っただろ?」と、うれしそうにしていた。
 
闘う人だった。ひとのため、社会のために闘い続けた人だった。「もうちょっと自分の健康を第一に考えてほしいな」と苦言を呈すると、「わかってるから」と言いつつも自分のことはいつも後回しの人だった。最後まで、骨の髄までアクティビストの、あっぱれな人生だった。
 
「アマゾンから戻ったら話を聞かせてよ」と言っていたのに待っていてくれなかった。けれど、彼らしい姿を最後の思い出に残してくれたのは、彼からの贈り物だったような気がしている。最後に会ったその前日に訪ねた時は、私の顔を見たとたんに泣き崩れて「あなたは強いから、ってみんなから励まされるのはつらいんだ。ぼくは強くない」としぼり出すように言っていた。「あなたほど生きることを愛している人はいないよ。だから大丈夫」。やっとの思いでそうこたえると、うれしそうに微笑んだ。
 
生きることを誰よりも愛した人だった。ただ純粋に生きることを愛していた。生きる。人生はただそのことそのものに意味がある、と彼は自身の生き方を通して教えてくれた。
 
孤独な生い立ちの人だった。両親に捨てられ親を知らずに育った。田舎まちの極貧の生活から逃げるように13歳の時に貨物列車にもぐりこんでサンパウロまで出てきたという。「ここから乗ったんだ」と、生まれ故郷の線路の上で思い出話を語ってくれたことがある。大都会サンパウロで18歳までストリートチルドレンとして生きた。「市営劇場の奥の方から漏れてくるオペラの音楽に耳を傾けるのが好きだったよ」と言っていた。荘厳な建物の石の外階段に座り込んで目を輝かせていた少年時代のアラウージョの姿が目に浮かぶようだ。
 
路上の生活では、道端に落ちている新聞の切れ端を拾っては、いつも読みふけっていたとも言っていた。読書の好きな人だった。アクティビストとして政府の諮問委員なども歴任していた彼の会議の席に同席したことが何度かある。義務教育の4年生で家を出た彼とは大違いの博士号を持つスーツ姿の他の委員たちに囲まれつつ、ごく自然体に生き生きと、聡明に、時に激しく議論を闘わせていた。
 
学歴や肩書きや出自やその他もろもろの属性に関係なく、その人の素の魂そのものに触れることのできる稀有な人だった。運動のシーンで舌鋒鋭く容赦なく批判の言葉を浴びせかける相手とも、人間同士としてのリスペクトの関係を築ける人だった。
 
難しい思春期の年頃の子たちの懐に飛び込むことができる人でもあった。この10年ほどはサンパウロの貧困地域でセクシュアリティ教育に尽力していた。子どもたちは、先生や親には言えない悩みや疑問をアラウージョになら語れるようだった。生き生きとした対話や議論を通して、子どもたち自身に考えさせる。そして子どもたちの中にある先入観や偏見 – まわりの大人たちによって形作られたもの – を共に見つめて分解していく彼の授業は本当に見事だった。
 
自身は子孫を残すことはなかったけれど、次の世代に豊かなものを彼は手渡していった。「恵まれない過去を断ち切って」とか「困難を乗り越えて」とかじゃ、きっとなかったんだろう。歩んできた人生の喜怒哀楽苦を自分の一部としてそのままに慈しみながら、「いま」を生きたんだろう。
 
「ぼくは日本みたいに火葬がいいな」と、かねてから本人が口にしていた希望通り、ブラジルでは稀なことだけれど荼毘に付されて少なくとも一部は散骨されたと聞き及んでいる。墓が設けられたのかどうかは知らない。この先、それを確認することも私はないだろう。彼なりの強い美学を持った人だった。意識不明の状態で人工呼吸器の管につながれた姿を他者に見られるのは、本人にはひどく不本意なことだったに違いない。棺に横たわる姿も見られたくはなかっただろう。
 
キリスト教国のブラジルでは勇気の要ることだけれど、無神論者であることを公言してはばからなかった人だ。霊の存在も生まれ変わりも信じていなかった。「いま」を生き切って、きっぱりとこの世界から消え去ったのだ。そう受け止めることが彼ののぞみではないかと思っている。残された者たちが彼の意志を受け継いでいく、ただそれだけを本人は望んでいると思う。
 
旅立ちにも葬儀にも立ち会えなかったけれど、アマゾンの先住民族保護区に入り村々を訪ね歩いていたその時に彼が重い病床にあって、そして旅立って行ったことに私は意味を見出さなければならない。
 
わずか3週間程度とはいえ先住民族の村で生活を共にする時、いつも「生きるってなんだろな」と考える。アマゾン熱帯林の自然は過酷だ。そして村人たちは誰もが忙しい。生きる糧を、住まいを、道具を、自らの手で作り出す暮らし。小さな子どもたちは遊ぶのが仕事だ。若い者のようには体が動かないお年寄りも手を動かして糸を紡いだりしている。その人がただそこにいるだけで安心できる、そんな人もいる。
 
この世界のだれもに、この今生の世界に生まれてきた、その人なりの役割がある。その役割を果たしながら私たちは「いま」を生きるのだ。時間は誰にも平等だ。「いま」を積み重ねながら、未来を私たちは手繰り寄せていくのだ。そうやってアラウージョは「いま」を生き切って、そしてきっぱりと旅立って行った。
 
サンパウロに戻ってからも多忙な日々が続いている。忙は「心をなくす」と書くというけれど、時にはそれは救いです。私にとっては深い心の友であり同志だった。普段は地球の反対側に遠くに離れていても、3日とあけずにいつもおしゃべりしていた。いろんなことを語り合った。政治や社会やそれぞれの人生のことやバカ話もいっぱい。
 
自分の一部をもぎ取られたようで悲しくてたまらない。座り込んだら自分がだめになってしまいそうだからこのまま駆け抜けなくては、と彼の死がまだ現実感のないままに考えている。
 
 
これまで長きに渡ってアラウージョに友情と連帯をいただきました皆様、彼の講演会を実現してくださった皆様,彼に出会ってくださった皆様、本当にありがとうございました。深く感謝申し上げます。(アラウージョのいないサンパウロにて)

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2019年9月11日 (水)

なのちゃんに

なのちゃん ご本が生まれておめでとう!

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菜の花ちゃんの沖縄日記 出版記念会

なのちゃんの「菜の花の沖縄日記」出版記念会。なのちゃんは母校の珊瑚スコーレで、自分で紅型染めして縫ったゆかたを着てました。
東京新聞の中山洋子さんが進行役。彼女が、なのちゃんの中2の時の作文を読んで彼女の感受性と表現力に気づき、中山さんの提案で北陸中日新聞でのなのちゃんの連載がはじまったんでした。Img_1046

沖縄テレビ制作の「菜の花の沖縄日記」上映後、なのちゃんトーク。1月にとくべつ紅茶でなのちゃんのお話聞いた時も思ったけど、いつも誠実に自分の言葉をさがすなのちゃん、自分に問題をひきつけて、自分だったらどうしよう、何ができるだろう、と考える。わかったふりしないとこがいいなあ。

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なのちゃんのお話からーーー
沖縄に行って学んだこと。違う意見の人と関わることの大切さ。遠くのことに対してはきれいごといえるけど、半径5メートル、自分の今いる場所で何していくか。前は、自分の正しい、を人に押しつけてたな、しゃべるより聴く人に、からだ動かす人になりたい。

沖縄に行って自分の生まれたところを考えるようになった。ここだけにしかないもの、自分の核、アイデンティティは何かって深く掘り下げるようになった。
帰って来てから、内灘闘争のこと初めて知ったことはおっきい! 沖縄で起こってることは日本のどこだって起きる。内灘のおっかたちやたくさんの人が撤退させた米軍の存在が、沖縄に行ったことを知った時、点と点が線になってじかにつながった。沖縄の問題って思ってたものがすぐ横にあった。自分は加害者だったんだ。

自分の意見の表し方を体現してるのが沖縄だと思う。辺野古基地県民投票の時、スコーレの子たちがU17(17才以下)の模擬投票したのに自分も参加した。自分で自分にタネを蒔いたな、って。

どこにいても理不尽なことはある。珠洲にかえってきて、この春からはじめた勉強会が、ゴミ問題を考える「なかまして」という会。スーパーに紙袋再利用のコーナーおかしてもらって、これは結構活用されてる。モノを通して人とコミュニケーションできる掲示板もつくった。ほしいもの、あげたい売りたい買いたいものが循環するように。
もう一つは、「珠洲みらい塾」。もっと市民が積極的に政治や社会に参加しませんか。珠洲市議会に傍聴にいったら、なんて行きにくいとこにあるんだ、ってわかった。足の不自由な父には特に。で、バリアフリーの請願書を市議会に。動いて行ったら変わるんだと、無力感なくすことをしていきたいな。

小さな沖縄はどこにもある。珠洲原発反対運動はまだ小さくて知らなかったけど、構造は沖縄と同じと知った。原発も沖縄も、生活か経済かの選択で分断される。市民がまっぷたつになった。目先のお金に動かされず、自立することが大事。「沖縄の問題は、尊厳の問題」だと。日本は、沖縄の尊厳をないがしろにしている。

石川テレビの赤井朱美さんがつくった珠洲原発のドキュメンタリーに出てた人が「春はわかめとか山菜、魚は取れるし。これ以上、電力さんは何が豊かというんだ」って言ってたのをよく覚えてる。いま・かね・じぶんさえよければ、でない生き方。どこでも、自分で考えて、自分で生活していくことが大事、って思う。
(これ聴きながら、笠木透さんの祝島の歌「豊かな青い海」を思い出したよ。♪魚と野菜と いい友だちがおれば ほかに何がいるのだろう 私のこの人生)

(菜の花さんが中学生の時から社会のことに関心持つようになったのは、敏感なのはどうして?と会場から問われて)
家では当たり前のように、食事の時も政治とか社会の話をしてた。学校で話してると、みんなが知らないことがわかる。あ、うちって変わってるんだ、と。自分が敏感かどうかはわからないけど、小学生の時からのいじめは、大きかったかな。人の感情に目がすぐ行くようになった。小学5年の後半から和歌山の寄宿舎のある学校にいったのは、ここにいたらいのちがあぶない、って思うくらい追い詰められてたんだろな。家が、家族だけでなくて、いつも誰かしら来てはお茶のんでた、いろんな人が出入りしてたから、息がしやすかった。いま、どこにも自分の居場所がない人、多いだろうなと思う。

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なのちゃんの話、また聴けてよかった!質問にも、いつも自分に引き寄せて考える。なのちゃんの連載には途中から沖縄テレビさんも同行して、ヘリパッドがおちた牧草地、保育園、海のすぐ近くのおうちも訪ねて、そこの人のお話をじかに聴いてる。地方の新聞と地方のテレビというメディア。そして一冊の本というメディアで、全国の人が読めることになった。さらに、来年には、沖縄のドキュメンタリーに追加取材をくわえたものが、一本の映画になる。ってことは、なのちゃんの15歳から現在までの発見も学びも、全国の人が知ることができるってこと。なのちゃんの体験を通して、沖縄のこと、これまでと違う角度からきっと知ってもらえるな。

最後に中山さんが、なのちゃんの小さい頃から、石川テレビの赤井さんというすばらしいドキュメンタリストが近くにいたことで、テレビというメディアを信頼してくれてた、と言われた。そうか、この一連の流れの中で、それもまた大きなこと、信頼できる大人と出会えていた、ってことだったのだろうな、と。その中にはもちろん、赤井さんのお連れ合いの五十嵐さん(なのちゃんと沖縄を本格的につなげてくれたお二人)、また映画監督の三上ちえさんも。

写真は、みゆきちゃんとはじめてあえて大喜びのなのちゃん、そしてホンソンちゃんと。

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ホンソンちゃんと

菜の花ちゃんの「菜の花の沖縄日記」出版記念会に参加するために、大阪からかけつけた、ホンソンちゃん。会場に行く前に、しばし、紅茶の時間の雰囲気をあじわってもらいました(曜日は違うけど)。

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珠洲の坂本一家から、なぜか、ホンソンちゃん、とよばれてるそうなので、私も、さんづけでなく、ちゃんづけで。
なのちゃんにあったのは彼女が8歳くらいのときですって、12年ぶりの再会!

大阪国際大学で人権を教えている彼女、今、社会でおきているいろんな現実の映像を学生さんたちと共有します。こんな先生だったら、若い人も社会に関心持つようになるよなあ。なのちゃんの映像も授業で学生さんたちに見せてくれています。

毎回の授業の準備で時間がどれだけあっても足りない由。今日の会にも、大学が夏休み中なので、金沢にくることができました。

笑顔がとってもいいよね!ホンソンちゃん。Img_1036

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2019年8月24日 (土)

ゆうこさんのことが日経新聞に

オリーブさんの、「みえなくなってみえてきたこと」という特別紅茶の時、埼玉から飛行機でとんできてくれたゆうこさんが、今日8月24日の日経新聞の夕刊に。

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川越紅茶のジュンコさんがしらせてくれたので、みなさまともシェア。ゆうこさんは、川越紅茶仲間でもあるのです。

オリーブさんが話してくれたお話ともかさなっているなあ、紹介してくれた絵本「みえるとかみえないとか」とも。

ふしぎな拡大鏡に興味をもった男の子が、電車のなかではなしかけてきて。ゆうこさん、男の子、その子のお父さん、のしぜんなやりとりが、とってもいいな。ゆうこさんのうれしそうな笑顔も目にうかぶよ。

写真は、とくべつ紅茶でオリーブのおはなしをきいてるゆうこさん。196_20190824203901

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2019年8月21日 (水)

メロポチさん、ありがとう!

ありがとうがいくつ会っても足りない!後3日で近江町市場内、アンダーグラウンドのお店を閉める、メロポチさんにて。

森の熊お、もとい、熊野もりおさんが、勤め人→かわら職人→梨農家→1998年7月4日に、梨の生ジュースとパラゴンバナナジュースのメロポチをはじめる→二度の国政選挙出馬→メロポチしながら金沢市議へ、に到るまでの矢印の秘密が、MC役のカマちゃんこと鎌仲監督のツッコミトークで明かされる!なんとも刺激的で爆笑連続の2時間。ちなみに、開店記念日の7月4日が「なしの日」だったことは、21年後の昨日にしてはじめて知った熊野さん。

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25年くらい前の、アースデー金沢のころから、熊野さんを知ってたんだなあ、と思い出した。フィリピンのパグサコップのバナナとのつながりは、そうだそうだ、アルのむつみさんからだったんだ。出馬のわけは、白山の自然を考える会が熊野さんを中村敦夫さんに推薦したことからだったんだ、などなど。
敦夫さんがメロポチにきて、君の政治信条は何だ、と聞かれて、とっさに、ロックです!と答えたら、そうか、ロックか!政治はロックだ!で意気投合したって話もすごい。

アースデーに出演してた人たちがメロポチで次々ライブをするようになって、生ジュースと生ライブ喫茶のメロポチは、地上とは一味違う、ちょっとこの世ならぬ?いごこちいい空間、人と人をつなぐ場所、になってったんだ。
「早足で歩いている人には、この店は見えない。階段降りて入るのに、勇気がいる店。僕はその勇気を称えて、お客さんを迎える。
この店にはタブーがない、自由に喋っていいい、来た人同士がともだちになってく。少ないお客さんとでも、楽しい時間をすごす、話してるうちに僕も発見する。いい時間すごすのが、僕のテーマ」と。

来る人を拒まない。いろんな人といろんな話しをしてきてる熊野さんには、市民の思いやニーズがよくみえる。市議会では毎回かならず質問をする。圧も感じながらだけど、そんな熊野さんをだんだん認める先輩たちも。
ひょうひょうとしてて、ひとをよく見てて、話を聴いて、そして自分の直感を信じて行動する、すげーひとだ、とあらためて。

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この夜は、カマちゃん初プロデュースのドキュメンタリー「インディペンデントリビング」の予告編もみました。障がいを持つ人たちの自立がテーマ。同時に、それは私たちの「自立」についても考える映画、とカマちゃん。監督は、28歳(熊野さんがメロポチをはじめた年)の田中ゆうきさん。映画には、去年まで大阪の自立支援センターで働いてた翼くんもでてきてた。来年2月公開、シネモンドさんで観たいなあ。

ネクストメロポチの、場所はまだ未定だけども、きっとまたはじまる。熊野さんが市議になってからは恭平さんが主にお店をきりもり。(3月20日のピースウォーク金沢前夜祭でも、恭平さんにほんとにお世話になった)ネクストの場でもどうぞまたよろしく!

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今夜、こんなすてきな場をしかけてくれたみゆきちゃん、ありがとう。みゆきちゃんをふくめて、今夜の受付やジュースお運びなど手伝ってたももちゃん、まりこさんの3人が、今、アルさんではたらいてる、ってのもまた、すごいつながりだね。

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2019年7月25日 (木)

江間先生のこと

7月25日の北陸中日。「わがまちの偉人」で、江間蕗子先生!(蕗子、ふき、の名前で絵や文章を書いておられた)
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紅茶がまだ子育て井戸端状態だったころ、江間先生からたくさんの大切なこと、教えていただいた。とくべつ紅茶のゲストでお話もしてくださった。とうもろこしの皮でつくるお人形作りもおしえてくださったなあ、私はちっとも上手くならなかったけど。
 
戦後、引き揚げ者と呼ばれる人たちが大勢移り住んだのはもと陸軍のおかれた土地。夫を戦争でなくした母子家庭が優先的にそこに住むことになったと江間先生からお聞きしたことがある。そこが平和町、という名前になった。
江間先生も夫をなくし、3人のお子さんを抱えて生きてかなきゃならなかった。陸軍兵舎が最初の保育園となり、先生はそこで保母さんを、そして園長先生に、それから平和町児童館の館長さんに。
 
墨絵をかいておられた江間先生。紅茶の時間20周年コンサートの会場に、お仲間たちに付き添われて、ろうそくのともしびの絵をとどけてくださった。それは今も紅茶の時間を灯してくれている。
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江間先生作詞の「へいわのうた」。
♪へいわってなにさ なんだろな どのこも すくすくのびること こうまも こどもも たけのこも いっしょにおおきく そだつことさ

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2019年7月12日 (金)

月光荘おじさん展&ライブ

七夕の日、月光荘おじさん展をしている、富山県上市町へ家族で。北陸道立山インターから10数分の、西田美術館へ。197_20190712165201197_20190712165501

おじちゃんのお孫さんの日比こうぞうさんは音楽家でもあって。
トーク&ライブのはじまる前からもういっぱいのお客様たち。

こうぞうさんのかたる、月光荘おじさん。18歳でふるさとを後にしてから、一度も帰ることがなかったという話ははじめて聴きました。 祖父が月光荘のサロンで音楽家たちとつくってきた関係を、僕も追体験、といって、富山県内のミュージシャンとのライブを何曲も。

会場におかれた月光荘ピアノとのライブはとくに嬉しかったろうなあ!ピアニストさんのひく月の光もあれば、美術館の学芸員さんの宇田さんとのコラボもあり。197_20190712165202

こうぞうさんのオリジナル曲は、ロックあり、ブルースあり、歌も声も歌詞も演奏もめっちゃカッコいい❣️
♪めざせ山のいただきでーー簡単に覚めてしまうような夢じゃない、信じぬく、本当の意味がやっとわかってきた
♩R.G.Bーー難しく思っても、複雑に思っても、ポイントはいつもeasy,いつもsimple(red,green,blueの歌)
♪たった一匹目のアブラゼミーー声をからして、その叫びの届け先、今はまだ見つからないだろう、だけど俺は聴いたぞ、その声を。世界をゆりおこせ、土まで揺らせ、その声で。

今、確実に月光荘おじさんはここに居るなあ!って何度思ったろう!反骨も情熱も、たしかに受け継がれてる。

197_20190712165301 思いがけずのご指名で一言ご挨拶。50年前の月光荘バッグと一緒に。(立ってみたら、会場いっぱい、立ち見のお客様!)

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会場に展示されてた月光荘カタログの一枚は1980年のだった。カタログ作りをお手伝いしてた頃のを、こうぞうさんが選んでくださってたんだ。
だから見慣れた文章がそこにいっぱいあった。なんと私の出したハガキまでそのカタログの中ににあった。

会場にはおじさんと交流のあった画家たち、作家たちの作品も。岡田三郎助、宮本三郎、中川一政、小磯良平、藤田嗣治、脇田和、河井寛次郎、浜田庄司、、、。

おじちゃんの娘さんのななせさんもいらしてた。学芸員の宇田さんとの3ショットもななせさんに送らなくっちゃね。宇田さん、本当にありがとう!197_20190712165402

おじさん展は7月21日まで。月曜休館、15日は開いてて、16日お休みです。

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2019年6月25日 (火)

ユンファさん  松山と岡山で

23日の午前、松山で。夜、岡山で。
もうもうびっくりするお顔がうつってました、ユンファさんのコンサートにいってくれた人たち!!
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松山では、渡部さんと竹ノ内さんと娘さん。2年前に松山に行った時は、道後公園で夜桜観ながら、桜の下でお花見弁当をごちそうしていただいたっけ。
 
この方たちに共通するのは、ともだち、ってだけでなくて、けんぽうかふぇで私をよんでくれた方たちってこと。とりわけ岡山コンサートに行ったひとは、何度もなんども語る場をつくってくださった方たち。
 
岡山の教会にいってくれた市場さん、ユンファさんがもっているのは、市場さんの娘さんで岡山県議をしてる大塚愛さんのパンフかな。
そして一緒にうつっているのは、なんと、いんのしまいさん。因島から岡山に行ったんだね〜〜!!いんのしまいさんのお隣は、ゆんふぁさんのマネージャー役の斎藤さんです。
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大好きなひとたちが、大好きなユンファさんの歌を聞きにいってくれたって、すんごくうれしい!

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